沖縄県の恩納村(おんなそん)は、沖縄本島中部の西海岸に位置し、万座毛をはじめとする景勝地や大型リゾートホテルが集まる土地である。海水浴場も多くて、本土の人間が思い描く「南国の沖縄」に最も近い場所かも知れない。
これはタイガービーチの近くに宿泊したときの写真だ。夜になると海岸の方から花火が上がることがあった。
石川展望台と呼ばれる場所に来た。ここからは北側に石川岳、恩納村が見える。ここの地点から島の北側は、ほとんど山ばかりだ。
もっとも、沖縄へ行ったことのない人と話していると、「沖縄に山なんてあるのか」と聞かれることがある。確かに本土の人間は、沖縄と云うと海ばかりを想像しがちである。しかし実際には、本島北部はかなり山が多いのである。恩納村の辺りですら坂道が多く、徒歩や自転車で島を東から西へ横断するのは骨が折れると思う。
展望台から見下ろすと、麓には大きなゴルフ場が広がっていた。沖縄の森は濃い緑色をしている。その中に、黄緑色の芝生と白い砂のバンカーが幾何学模様のように配置されている。率直に言って美しいと思った。
私はゴルフをしないが、景観として眺める限り、この風景はなかなか見事だと思う。沖縄の強い日差しの下では、芝生の黄緑色とバンカーの砂色とが鮮やかに浮かび上がっている。 沖縄の夏は相当暑い。ゴルフでは一日中歩き回るのだから、実際にプレーする人々は大したものだと思う。
いずれにしてもゴルフ場は一種の庭園のようだ。沖縄の自然を眺めているつもりでいても、その風景の一部は人間が後から作ったものであった。
展望台からは恩納村の海岸線と石川岳の方向が見渡せる。沖縄本島はこの辺りで最も細くなっているので、高い所へ登ると左右に海が見える。片方は東シナ海であり、もう片方は太平洋である。同じ海でも西側の方がどこか色が鮮やかに見える。
この独特の色彩は、さんご礁や石灰岩、遠浅の海岸といった地理的条件によって生じるものらしい。しかし理屈を知ったからといって感動が減る訳ではなく、むしろ何故あれほど美しく見えるのかを人間が説明しようとしているのだな、と思う。
「海」と云えば普通は青い水面を思い浮かべるのだが、沖縄の海にはそれだけでは言い表しがたいものがある。「海」の色というより、一種の「光の現象」を眺めているような気がするのである。
沖縄に住んでいた頃、私は散歩のたびに、お気に入りのポッドキャストを聞きながら海岸沿いを歩いていた。目の前には東シナ海が広がっている。ほんの百数十年前であれば、人や物の往来を妨げる巨大な障壁として存在した海である。その海を眺めながら、私は東京などの遠く離れた本土で配信された音声を聞いていた。
海そのものは昔と変わらずそこにある。船で渡ろうと思えば今でも容易ではない。しかし情報だけは、その広大な海を全く存在しないもののように飛び越えて来る。
海を眺めていると、人間は長い間、島と島、国と国とを隔てる障壁と向き合って来たのだと思う。一方で、耳から流れて来るポッドキャストは、その障壁を殆ど無意味なものにしてしまっている。私は散歩をしながら、変わらない地理と、急速に変化した通信技術との奇妙なせめぎ合いを感じていた。
石川周辺には養豚場が多いらしく、夜になると独特の匂いが漂って来る。肥料のような匂いでもあり、時には血の匂いを連想させることもある。雨上がりには殊に強く感じられる。観光案内には余り書かれない事であるが、実際に暮らしてみると、こういう匂いの方が却って土地の記憶として残るのかも知れない。
もっとも私は田舎の出身で、肥料の匂いには比較的慣れている。そのため余り気にならなかったが、住居を探す人の中には敬遠する者もいるであろう。考えてみれば、沖縄料理は豚肉を多く用いる。そういう食文化を支える現場が何処かに存在するのは当然なのであるが、我々は食卓の上の肉しか見ない。
展望台から青い海を眺めた後で養豚場の匂いを嗅ぐと、観光地としての沖縄と、生活の場としての沖縄とが、同じ場所に重なっていることを改めて感じた。
展望台にはハートマークや相合い傘の落書きが沢山残されていた。展望台という場所は不思議なもので、何処へ行っても似たような落書きがある。
人間は高い所へ登って遠くを眺めると、景色よりも隣にいる相手の方が気になって来るのかも知れない。そして、そうして名前を書き残した二人が、その後どうなったのかは誰にも分からない。
これは、展望台に登る階段の写真である。何百段かあって、登るだけで結構良い運動になると思った。
自分が登ったときは、地元の方が運動がてら登ってきていて少し話ができた。彼は地元の出身でガイドの仕事もしているらしく、観光地の青の洞窟の場所などを指で指し示して教えてくれた。その他、本土から移住してきたひとがあの辺りに多く住んでいて、等の話をしてくれた。
そのうち、奄美大島の話になった。私は近いのだから当然行ったことがあるものと思っていたが、その人は「有名なのは知っているが、自分は行ったことがない」と云う。
最初は少し意外な気がした。しかし考えてみれば、奄美へ行くには飛行機や船を利用しなければならない。地図の上では近く見えても、日常生活の中では案外遠いのである。
そういう事は本土にもある。東京の人間が意外に東京タワーへ登ったことがなかったり、大阪の人間が通天閣へ行ったことがなかったりするのと似ているのかも知れない。海によって隔てられた島々を眺めていると、近いとか遠いとかいう感覚も、結局は交通手段によって決まる相対的なものに過ぎないのだなと思った。


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