喜屋武岬へ行って来た。沖縄は鉄道のない島である。那覇市内ならともかく、南部の海岸や岬を訪ねるには自動車が便利である。今回は知り合いに乗せてもらった。
本島の南部には以前から一度行ってみたいと思っていた。観光案内に出て来るような海浜リゾートも悪くはないけれども、この辺りには沖縄戦に関わる史跡や慰霊地が多い。沖縄について少し考えるなら、やはり一度は足を運ぶべき土地のような気がしていたのである。
那覇からは一時間程度であっただろう。しばらくは、本土の地方都市とさほど変わらぬ景色が続く。しかし南へ進むにつれて町並みは次第に疎らになり、やがて視界の向こうまでさとうきび畑が広がるようになる。季節は夏であった。
喜屋武岬には平和祈念公園がある。沖縄本島の南部には、多くの平和公園が存在する。太平洋戦争の末期に読谷のあたりから上陸した米軍は南下して首里、那覇を抑え、そこからさらに南へと沖縄の守備隊と避難した住民とを追い詰めていった。
その結果、この本島南端の地域で沖縄戦が終焉するまでに多くの軍人や民間人が死亡した。このような経緯から狭い領域にたくさんの平和を題にした公園が多く存在しているのである。空は青く、陽射しが強い。畑の上には白い雲が浮かび、その下を風に揺れるさとうきびの葉が波のようにうねっている。
沖縄の海はまだ見えない。しかしこの風景はまさしく南の島であった。
駐車場にはツーリングの途中らしいバイクが何台も停まっていた。彼らはこの後どこへ向かうのであろうか?
沖縄本島の南端まで来たのだから、今度は北端の辺戸岬を目指すのかも知れない。あるいは港へ戻り、船に乗って離島へ渡るのであろうか。旅人というものは目的地へ着いた途端に、もう次の目的地のことを考え始めるものである。
そう云えば私も同じであった。
岬へ来るまではこの海を見たいと思っていたのに、海を眺めているうちに、次は平和祈念公園へ行こう、その次はどこへ行こうと考えている。旅の面白さは、目的地そのものよりも、次の土地へ心が移って行くところにあるのかも知れない。
バイクの人々を見ながら、そんなことを思った。
喜屋武岬は、高さ三十メートルほどの断崖であるという。岬に設けられた説明板にそう書かれていた。崖の上から眺める海は鮮やかな青色であった。沖縄の海と云うと、珊瑚礁の浅瀬に見られるエメラルド色を想像しがちであるが、ここではむしろ深いコバルトブルーという印象であった。
白い波が断崖の下で砕け、その向こうに青い海面がどこまでも続いている。訪れる人は絶えないようであった。しかし有名な観光地のような賑わいはない。売店が並んでいるわけでもなく、海水浴場があるわけでもない。ただ人々は岬が見える端へ歩いて行き、しばらく海を眺めると帰って行く。
この岬の名が知られているのは、景色の美しさばかりではない。沖縄戦の末期、多くの人々がこの付近の断崖から身を投げたと伝えられている。一度そうした話を聞いてしまうと、景色の見え方も少し変わる。遠くから眺めている分には美しい海であるのに、断崖の縁へ近づこうとすると何となく足が重くなるのである。
戦争のことをひとまず離れると、喜屋武岬から見える海は美しかった。海の色は深い青、コバルトブルーであった。実際の水深がどれほどなのかは知らないが、その濃い色合いのために底知れぬ深さを感じさせる。珊瑚礁の海に見られる明るい碧色とは少し趣を異にしている。
ここは沖縄本島の最南端に近い場所である。視界の中には人工物らしいものがほとんど見えない。海と空と断崖だけがあり、その境目を白波が絶えず行き来している。そうした景色を見ていると、自分が島の端まで来たことを実感する。
今回は立ち寄らなかったが、この辺りにはひめゆりの塔がある。沖縄戦の末期、看護要員として動員され、そのまま戦火の中で命を落とした女学校の生徒たちを慰霊するための塔である。沖縄の南部を旅していると、このような慰霊碑や記念施設にたびたび出会う。
その近くの食堂のメニューを見ると、「ひめゆりステーキ」という料理があった。何の肉料理なのか分からなかったが、後で調べてみるとサーロインステーキのことであるらしい。
初めは少し意外な気もした。慰霊碑の名を冠した料理と云うものが、内地の感覚ではあまり思い浮かばないからである。しかし考えてみれば、そこに暮らす人々にとっては、「ひめゆり」と云う言葉は歴史上の出来事であると同時に、日々の生活に密着した名前であるのであろう。
旅人は時として、土地の記憶を特別なものとして眺める。しかし土地の人々は、その記憶と共に日常を営んでいる。
ひめゆりステーキと云う不思議な名前を見ながら、私はそんなことを考えた。
平和祈念公園へ来てみると、人影は思いのほか少なかった。尤も、人が少ないと云うより、公園そのものがあまりに広いのである。広場も道路も駐車場も、何もかもが大きく造られている。その空間の広さを見ていると、この場所は初めから、多くの人々が集まることを予定して設計されたものなのだと云う気がする。
恐らく6月23日の慰霊の日には、全国から人々が集まり、この広場も埋まるのであろう。




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