柏原という場所は兵庫県中央部にある。この町を歩いていると、あちこちで織田家の木瓜紋を見る。ここは織田信長の系譜を引く織田家が治めた城下町なのである。信長と云えば安土城や天下統一を思い浮かべるが、柏原の織田家はそういう華々しい歴史とは少し違う。
信長の時代には天下人に最も近かった一族であるが、江戸時代には二万石の小藩として存続した。歴史というものは不思議なもので、滅んだと思われる家ほど意外な形で生き残っていたりする。足利家や今川家も同様で、かつて天下に号令した家々が、江戸時代には小藩主や高家として生き残った。
江戸幕府の将軍であった徳川家から見て、かつて同盟を組んで天下人の先駆けとなったのが織田家であったが、幕府は織田家を滅ぼさず、そのかわりに有力大名としても残さず小規模であるが、名誉は与えるという扱いをした。
現在の柏原は静かな地方都市であり、城下町というよりも住宅地と学校と役所がゆるやかに共存しているような場所である。しかし町を歩いていると所々で見る木瓜紋が、この土地が確かに織田家の町だった事を思い出させる。
柏原は現在は丹波市という行政区画だ。もともと丹波の国の一部だったからだ。この辺りでは「丹波」という言葉そのものに一種の価値がある。丹波黒豆、丹波茶、丹波焼といった具合に、土地の名前そのものが商品になっているのである。
さて柏原八幡宮は、建物の前身は南北朝時代の戦乱で焼け、その後戦国時代に明智光秀が丹波攻めをしたときに再び焼失し、その後豊臣秀吉によって再建されたという。神社なのに仏教建築という三重塔、鐘楼が立つという神仏習合の特徴がある。現在は冬に厄除けの祭りが開かれることで地元民に愛されている。
これは三重の塔の説明書きだ。神社に塔があるというのは少し不思議な気がするが、昔は神社と寺院が現在ほど明確に区別されていなかったらしい。神仏習合と呼ばれる時代には、神社の境内に塔や鐘楼が建ち並ぶことも珍しくなかったのである。
八幡宮はちょっとした丘の上にあるので、階段や坂道を登っていく。頂上の八幡宮まで十分ばかり歩いたのかと思う。途中でカメラを持った旅行者らしい人と一緒になった。その人も、「思ったより距離がありますね」と言っていた。確かに、なかなか良い運動になる。地元では学校の運動部がこの石段を使って練習することもあるらしい。上まで駆け上がり、また駆け下りれば相当な鍛錬になるであろう。
陣屋の跡に立っていると、つい「殿様の暮らし」を想像してしまう。もっとも、殿様といっても何でも自由に出来た訳ではない。江戸には将軍がおり、家臣団がおり、藩財政があり、参勤交代もある。現代の会社組織と同じように、上と下の板挟みになる事も少なくなかったであろう。










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