2026年5月24日日曜日

2026初夏:茨城県、水戸その2:偕楽園

その次に、偕楽園に行った。
偕楽園の入口に近いところに常磐神社という神社がある。水戸徳川家に関係が深く、徳川光圀と徳川斉昭の両公を祀っているという。 境内には能舞台も設けられていた。舞台の奥には、大きな松の絵が描かれていて、土足禁止とは書いてあったが、靴を脱いで舞台に上がって見学をする人たちもいた。
私は茨城県民だったので、身分証を見せて無料で入ることができた。ただし偕楽園の中でも、好文亭に入るときには別途数百円を支払った。 偕楽園では、地元のボランティアガイドという人に30分間程度のガイドを頼んだ。
偕楽園という名前は孟子から取られたもので、「民とともに楽しむ」という意味であるそうだ。 現在で云う公園のような理念で作られたものらしいが、江戸時代に既にそういう思想があったというのは、少し意外な気もする。
もっとも、水戸藩主というものは、普段は江戸住いをしていたため、領地へ戻る機会は少かったらしい。歴代藩主の中には、一度も水戸へ帰らなかった人物さえいたそうである。
そういう話を聞いていると、藩というものが存在していても、実際には江戸の方が生活の中心になっていた訳で、江戸時代というものも、思ったより中央集権的だったのだな、という気がした。
さまざまな梅が3000株ぐらいあって2月にはたくさんの種類が見える。梅といっても色、形、咲き方などさまざまあるようだ。現在は鉄道がそばを通っている。特急列車がそばをとおりすぎた。
好文亭という建物がある。「好文」というのは梅の異名であるらしい。 建物全体もまた、陰と陽の調和を意識して設計されているという。
偕楽園内には梅が非常に多く植えられているわけだが、訪れたのは初夏だったので、花の季節は既に過ぎ、枝には青い梅の実が出来ていた。 歩きながら、今度は是非、梅の盛りの頃に来てみたいと思った。
もっとも、案内の人の話によると、梅の木というものは、樹齢が八十年ほどを超えると、次第に幹が捩れ、曲りくねって来るらしい。実際、園内には、幹の内部が殆ど空洞になり、外側の薄い部分だけで辛うじて立っているような古木も少くなかった。
しかも、それらは一本ごとに支柱で丁寧に支えられているのである。 私はそれを見ながら、こういう名園の梅林というものも、実際には相当人工的な維持の上に成立しているのだな、と思った。放っておけば自然に美しい梅林が残る訳ではなく、人間が一本一本世話をし、弱った木を支え、時には植え替えながら保存しているのである。
そう考えると、これは半ば「梅の養殖」のようなものかも知れない。 もっとも、人工的に維持されているから価値が低いという訳ではない。寧ろ、人間が長い時間をかけて風景そのものを飼育している、とでも云った方が近いのかも知れない。
園内には「吐玉泉」と呼ばれる水場がある。湧水を模したような造りになっていて、昔は飲料水として用いられていたらしい。 もっとも、現在は飲用には供されておらず、水面には虫なども浮いていて、余り飲みたい感じではない。
竹や篠も盛んに植えられているが、考えてみれば、昔の人にとって竹というものは、現在より遥かに重要な資材だったのである。籠にもなれば、垣にもなり、水道管の代りにさえなった。 そういう物が、現代ではほとんど景観としてしか残っていない。 水も竹も、昔は生きるための切実な技術であったのに、現在では観賞物になってしまったのである。
好文亭の内部には襖絵が数多く残されていた。もっとも現在見られるものは戦後の復元も多いのであろうが、広間に座って眺めていると、こういう建物では、部屋そのものより、むしろ襖や障子によって作られる淡い仕切りの感じが大切なのだなと思う。
館内には、皇族をはじめとする来訪者の記録も残されていて、「どなたがどの部屋で休憩された」といった説明が掲げられていた。私はそれを見ながら、こういう「皇族休憩所」というものが、日本全国には一体どれくらい存在するのであろうか、と妙な事を考えた。
恐らく昔は、行幸や巡啓のたびに、各地の名望家の邸宅や藩ゆかりの建物が、そのための場所として整えられていたのであろう。現在では観光施設の説明板として残っているだけであるが、かつては地方にとって、一種の重大行事だったに違いない。
好文亭には、食事を二階へ運ぶための小さな昇降装置も残されていた。現在で云えば簡易エレベーターのようなものである。その上には料理を冷まさぬための火鉢の設備まで設けられていて、なるほど、こういう場所では客人への給仕そのものが、一種の儀式であったのであろうと思われた。
酒など飲んだ後にあの急勾配な階段を降りるのは、少し怖そうでもあった。
好文亭の中には小さなカフェが設けられていて、庭を眺めながら茶や菓子を頂けるようになっていた。 考えてみると、こういう場所で誰でも気軽に休憩出来るというのは、少し不思議な事でもある。 元来ここは水戸藩主の別邸であり、ある程度は限られた者しか入れなかった場所であろう。それが現在では、入場券さえ払えば、観光客が梅を眺めながら菓子を食べ、スマートフォンで写真や動画を撮ることができるのである。
江戸時代の人間が現在の好文亭を見たなら、恐らく奇怪な光景に見えるに違いない。諸国から人々が集まり、スマートフォンつまり小さな硝子板のような物を手にして景色を写し取り、身分に関係なく同じ座敷へ上がっているのである。 そう思うと、百数十年前の「民と偕に楽しむ」という思想も、現代ではさらに別の形へ変質した訳である。
では更に数百年後にはどうなっているのであろうか。 人間そのものが現在とは違った姿になっていても不思議ではないし、或いは、アンドロイドのような存在が庭園を案内しているのかも知れない。その頃には、梅を見るという行為そのものが、既に非常に古風な趣味になっている可能性もある。こんにちでは、梅干や梅酒など、梅はまだ食用として日常生活の中に辛うじて残っているが、何百年か後には、実用品としてではなく、「昔の日本人が好んだ植物」として観賞されるだけになっているのかも知れない。
しかし、どれほど時代が変っても、ああいう高台から風を受けながら遠くを眺める気持だけは、案外変らず残るのではないか、という気もした。
さて、この好文亭自体も、戦災によって一度焼失している。現在の建物は、戦後しばらくして再建されたものであるという。襖絵もそれ以降に描かれたものだ。
この空襲は1945年の8月に行われたものであり、水戸市内にある数々の史跡と水戸城などもその時に焼けた。 後で調べてみると、水戸が空襲目標になったのは、単に地方都市だったからではなく、常磐線の重要拠点であり、さらに日立製作所関連工場の労働力供給地でもあるため標的にした、というのが米軍のねらいであったらしい。
偕楽園そのものもまた、江戸時代の藩政、幕末、水戸学、近代化、空襲、戦後復興、観光地化という幾つもの時代を通過して現在に至っている訳で、一つの庭園を見ているつもりでも、実際にはその背後に、日本近代史そのものが折り重なっている、というわけなのであった。

2026初夏:茨城県、水戸その1:茨城県近代美術館

先日、水戸へ遊びに行った。主な目的は偕楽園を見るためであったが、水戸という土地は、単に庭園だけではなく、博物館や古い建築なども比較的よく残っていて、江戸時代や近代日本の記憶が、入り混じった感じを受ける町である。
現在の水戸は、常磐線の特急が走り、自動車道路が通じていて、地方都市としてはかなり便利な部類に属する。
茨城県近代美術館を訪れた。ここには茨城県ゆかりの作家の作品が数多く展示されている。
美術館をどういう観点で見るかというのは、その人の性格がよく表れると思う。私の場合、近頃は「もし自分の家に飾るとしたらどう見えるだろうか」という事を考えながら見ることが多い。絵そのものを見るというより、その絵が置かれた部屋を想像する。

小さな画を見ると、書斎や隠れ家のような部屋が思い浮かぶ。反対に巨大な屏風絵を見ると、大広間で人々が集まっている光景が連想される。絵画というものは一枚だけで存在しているようでいて、実際にはその周囲の空間ごと想像させる力を持っているらしい。

横山大観は長生きしそうな絵を描く人だと思った。山や海や空など、人間より遥かに長い時間を生きるものばかり描いているせいか、作品全体に急ぐところがない。実際、大観は九十歳近くまで生きたのである。

そのすぐ隣には、三十七歳で結核に斃れた中村彝の作品が掛かっていた。人物や静物を描いた絵である。 もちろん、画家の寿命と作風との間に因果関係はなく、おそらく私が先に略歴を読んでしまったせいなのであろうが、展示室を歩いていると、不思議な事に、大観の絵は長寿の人間が描いたように見え、中村彝の絵は若くして世を去った人間が描いたように見えて来る。

版画家の清宮質文の作品も展示されていた。彼の版画はどこか幻想的で、青色で、私は国語の教科書の挿絵を連想した。実際にそういう仕事をしていた訳ではないのであろうが、森や家や人物の描き方に、子供の頃に読んだ幻想物語の記憶を呼び起こすような所がある。

水墨画は、うまく鯉を書いてあるものがあって面白かった。あるいは家ぐらいある巨大な屏風いっぱいに描いた牡丹の絵も印象的だった。

その後、中村彝の旧アトリエを見に行った。 中村彝は明治から大正にかけて活動した洋画家で、三十七歳の若さで結核によって死去した人である。ルノワールなどの影響を受けたと説明には書いてあった。
アトリエは新宿にあったらしいが、中村彝の死後、改めて故郷である水戸に新築したらしい。内部には彼が使った椅子、ソファ、などが展示されていた。
「彝」という字が珍しいので調べてみると、古代中国で宗廟に供える青銅器を意味し、そこから「人が守るべき法」あるいは「常道」の意味になるらしい。そう云われてみると、重々しい字である。

アトリエ内では紹介映像が流されていたが、私は「カルピスの包み紙のある静物」という作品が妙に気に入った。

瓶入りで売られていた頃のカルピスの包み紙が描かれていて、その水玉模様が印象に残る。

上に書いた清宮の版画が国語の教科書の挿絵のようだったとすると、中村彝のこちらの絵は三角形も入っていて幾何学の参考書のような整理された感じがある。

現在の感覚では、カルピスというものは、どちらかと云えば懐旧趣味の飲み物であると思う。しかし、この絵が描かれた1923年頃には、発売されて間もない、かなり新しい飲料だったらしい。実際カルピスの発売が1919年だというから、最新の飲み物といっても良さそうだ。昔のカルピスは現在とは逆で、紺地に白の水玉模様であった。

つまり、当時の中村彝は、現代的で洒落た商品としてカルピスを見ていたのであろう。それが百年後には、逆に大正趣味の象徴のように見えて来るのであるから、時代というものは不思議である。

もっとも、私は芸術家の伝記を見るたびに、つい俗な事を考えてしまう。 結局この人は生活費をどうしていたのであろう、というような事である。 説明によると、新宿中村屋のオーナー一族が支援者になっていたらしい。中村屋なら私も新宿へ行くたびに前を通る。中村彝のアトリエも、当時は新宿の近くにあったらしい。現在の高層ビル街からは少し想像し難い。