2023年11月30日木曜日

2022年,2023年 兵庫県 柏原八幡宮の紅葉

柏原という場所は兵庫県中央部にある。この町を歩いていると、あちこちで織田家の木瓜紋を見る。ここは織田信長の系譜を引く織田家が治めた城下町なのである。信長と云えば安土城や天下統一を思い浮かべるが、柏原の織田家はそういう華々しい歴史とは少し違う。

信長の時代には天下人に最も近かった一族であるが、江戸時代には二万石の小藩として存続した。歴史というものは不思議なもので、滅んだと思われる家ほど意外な形で生き残っていたりする。足利家や今川家も同様で、かつて天下に号令した家々が、江戸時代には小藩主や高家として生き残った。

江戸幕府の将軍であった徳川家から見て、かつて同盟を組んで天下人の先駆けとなったのが織田家であったが、幕府は織田家を滅ぼさず、そのかわりに有力大名としても残さず小規模であるが、名誉は与えるという扱いをした。

現在の柏原は静かな地方都市であり、城下町というよりも住宅地と学校と役所がゆるやかに共存しているような場所である。しかし町を歩いていると所々で見る木瓜紋が、この土地が確かに織田家の町だった事を思い出させる。

柏原は現在は丹波市という行政区画だ。もともと丹波の国の一部だったからだ。この辺りでは「丹波」という言葉そのものに一種の価値がある。丹波黒豆、丹波茶、丹波焼といった具合に、土地の名前そのものが商品になっているのである。

さて柏原八幡宮は、建物の前身は南北朝時代の戦乱で焼け、その後戦国時代に明智光秀が丹波攻めをしたときに再び焼失し、その後豊臣秀吉によって再建されたという。神社なのに仏教建築という三重塔、鐘楼が立つという神仏習合の特徴がある。現在は冬に厄除けの祭りが開かれることで地元民に愛されている。

紅葉そのものも美しいのであるが、私にはむしろ空気の冷たさの方が印象に残った。この時期は夏の暑さが去り、冬の寒さが来る前の、僅かな季節である。その空気に触れた時に秋が来たのだと感じるのである。

とくに寒暖差が激しい地域では紅葉が美しくなるとされるから、丹波市は紅葉を見るには良い条件なのであろう。

神社の境内に三重塔が見える。神社と寺院が現在ほど明確に区別されていなかった時代の名残であり、柏原八幡宮の特徴的な景色になっている。

これは三重の塔の説明書きだ。神社に塔があるというのは少し不思議な気がするが、昔は神社と寺院が現在ほど明確に区別されていなかったらしい。神仏習合と呼ばれる時代には、神社の境内に塔や鐘楼が建ち並ぶことも珍しくなかったのである。

八幡宮はちょっとした丘の上にあるので、階段や坂道を登っていく。頂上の八幡宮まで十分ばかり歩いたのかと思う。途中でカメラを持った旅行者らしい人と一緒になった。その人も、「思ったより距離がありますね」と言っていた。確かに、なかなか良い運動になる。地元では学校の運動部がこの石段を使って練習することもあるらしい。上まで駆け上がり、また駆け下りれば相当な鍛錬になるであろう。

境内には鐘楼も残されている。明治の神仏分離によって多くの寺院建築が失われた中で、こうした建物が残されたのは幸運なことであったのだろう。

その次に時間があったので、陣屋の跡を歩いて回った。柏原藩織田家の本拠地は、城ではなく陣屋と呼ばれる屋敷であり、八幡宮から数分ほど歩いた場所にあった。現在は建物の一部だけが残っている。

陣屋の跡に立っていると、つい「殿様の暮らし」を想像してしまう。もっとも、殿様といっても何でも自由に出来た訳ではない。江戸には将軍がおり、家臣団がおり、藩財政があり、参勤交代もある。現代の会社組織と同じように、上と下の板挟みになる事も少なくなかったであろう。

近所には、柏原藩の資料館があり、田ステ女(たすてめ)と呼ばれる江戸時代の女性俳人の資料館もある。

知り合いが以前、「城下町というのは何処か落ち着いた雰囲気がある」と言っていた。柏原を歩いていると、なるほどそうかもしれないと思う。近くの小野市にも小野藩の陣屋町が残っており、あちらにも似たような静けさがある。

陣屋の周囲には学校や役所が集まり、道幅にはどこか余裕があり、大きな家がゆったりと建っている。そのためかとも思う。城下町では、殿様がいて、家臣がいて、寺があり、市が立ち、人が住む。

そうして長い年月を経るうちに、町にも人間と同じような気質が生まれるのかも知れない。柏原を歩いていると、その形だけが現在まで残り、そこへ現代人が住んでいるような不思議な感じがするのであった。

2023年9月24日日曜日

2023 沖縄 恩納村の周辺の写真

沖縄県の恩納村(おんなそん)は、沖縄本島中部の西海岸に位置し、万座毛をはじめとする景勝地や大型リゾートホテルが集まる土地である。海水浴場も多くて、本土の人間が思い描く「南国の沖縄」に最も近い場所かも知れない。

これはタイガービーチの近くに宿泊したときの写真だ。夜になると海岸の方から花火が上がることがあった。

私の興味は、次第に地形の方へ向かうようになった。そこで、私は石川高原展望台に登ってみた。

石川展望台と呼ばれる場所に来た。ここからは北側に石川岳、恩納村が見える。ここの地点から島の北側は、ほとんど山ばかりだ。

もっとも、沖縄へ行ったことのない人と話していると、「沖縄に山なんてあるのか」と聞かれることがある。確かに本土の人間は、沖縄と云うと海ばかりを想像しがちである。しかし実際には、本島北部はかなり山が多いのである。恩納村の辺りですら坂道が多く、徒歩や自転車で島を東から西へ横断するのは骨が折れると思う。

展望台から見下ろすと、麓には大きなゴルフ場が広がっていた。沖縄の森は濃い緑色をしている。その中に、黄緑色の芝生と白い砂のバンカーが幾何学模様のように配置されている。率直に言って美しいと思った。

私はゴルフをしないが、景観として眺める限り、この風景はなかなか見事だと思う。沖縄の強い日差しの下では、芝生の黄緑色とバンカーの砂色とが鮮やかに浮かび上がっている。 沖縄の夏は相当暑い。ゴルフでは一日中歩き回るのだから、実際にプレーする人々は大したものだと思う。

いずれにしてもゴルフ場は一種の庭園のようだ。沖縄の自然を眺めているつもりでいても、その風景の一部は人間が後から作ったものであった。

展望台の尾根を越えると、西側にはホテル群の並ぶ恩納村があり、東側には石川の市街地が広がっている。同じ沖縄でありながら、僅かな距離で景色の表情が変わるのが面白い。

展望台からは恩納村の海岸線と石川岳の方向が見渡せる。沖縄本島はこの辺りで最も細くなっているので、高い所へ登ると左右に海が見える。片方は東シナ海であり、もう片方は太平洋である。同じ海でも西側の方がどこか色が鮮やかに見える。

この独特の色彩は、さんご礁や石灰岩、遠浅の海岸といった地理的条件によって生じるものらしい。しかし理屈を知ったからといって感動が減る訳ではなく、むしろ何故あれほど美しく見えるのかを人間が説明しようとしているのだな、と思う。

「海」と云えば普通は青い水面を思い浮かべるのだが、沖縄の海にはそれだけでは言い表しがたいものがある。「海」の色というより、一種の「光の現象」を眺めているような気がするのである。

沖縄に住んでいた頃、私は散歩のたびに、お気に入りのポッドキャストを聞きながら海岸沿いを歩いていた。目の前には東シナ海が広がっている。ほんの百数十年前であれば、人や物の往来を妨げる巨大な障壁として存在した海である。その海を眺めながら、私は東京などの遠く離れた本土で配信された音声を聞いていた。

海そのものは昔と変わらずそこにある。船で渡ろうと思えば今でも容易ではない。しかし情報だけは、その広大な海を全く存在しないもののように飛び越えて来る。

海を眺めていると、人間は長い間、島と島、国と国とを隔てる障壁と向き合って来たのだと思う。一方で、耳から流れて来るポッドキャストは、その障壁を殆ど無意味なものにしてしまっている。私は散歩をしながら、変わらない地理と、急速に変化した通信技術との奇妙なせめぎ合いを感じていた。

石川周辺には養豚場が多いらしく、夜になると独特の匂いが漂って来る。肥料のような匂いでもあり、時には血の匂いを連想させることもある。雨上がりには殊に強く感じられる。観光案内には余り書かれない事であるが、実際に暮らしてみると、こういう匂いの方が却って土地の記憶として残るのかも知れない。

もっとも私は田舎の出身で、肥料の匂いには比較的慣れている。そのため余り気にならなかったが、住居を探す人の中には敬遠する者もいるであろう。考えてみれば、沖縄料理は豚肉を多く用いる。そういう食文化を支える現場が何処かに存在するのは当然なのであるが、我々は食卓の上の肉しか見ない。

展望台から青い海を眺めた後で養豚場の匂いを嗅ぐと、観光地としての沖縄と、生活の場としての沖縄とが、同じ場所に重なっていることを改めて感じた。

展望台にはハートマークや相合い傘の落書きが沢山残されていた。展望台という場所は不思議なもので、何処へ行っても似たような落書きがある。

人間は高い所へ登って遠くを眺めると、景色よりも隣にいる相手の方が気になって来るのかも知れない。そして、そうして名前を書き残した二人が、その後どうなったのかは誰にも分からない。

これは、展望台に登る階段の写真である。何百段かあって、登るだけで結構良い運動になると思った。

自分が登ったときは、地元の方が運動がてら登ってきていて少し話ができた。彼は地元の出身でガイドの仕事もしているらしく、観光地の青の洞窟の場所などを指で指し示して教えてくれた。その他、本土から移住してきたひとがあの辺りに多く住んでいて、等の話をしてくれた。

そのうち、奄美大島の話になった。私は近いのだから当然行ったことがあるものと思っていたが、その人は「有名なのは知っているが、自分は行ったことがない」と云う。

最初は少し意外な気がした。しかし考えてみれば、奄美へ行くには飛行機や船を利用しなければならない。地図の上では近く見えても、日常生活の中では案外遠いのである。

そういう事は本土にもある。東京の人間が意外に東京タワーへ登ったことがなかったり、大阪の人間が通天閣へ行ったことがなかったりするのと似ているのかも知れない。海によって隔てられた島々を眺めていると、近いとか遠いとかいう感覚も、結局は交通手段によって決まる相対的なものに過ぎないのだなと思った。

2023年9月23日土曜日

2023 夏 勝連城 

沖縄県うるま市にある勝連城(かつれんじょう)を訪れた。 私は以前から名前だけは知っており、琉球王国の世界文化遺産に登録されている数々のグスクを、この勝連城を含めて順番に訪れてみたいと思っていた。
本土の城郭と違って沖縄の城郭はまるで趣を異にしていて、天守閣もなく白壁が残っているわけでもない。積み上げられた石ばかりが積み重なっていて、沖縄の強い日差しと時々訪れる豪雨に晒されているのである。そのようすはいかにも南国的であり、潮風に磨かれた遺跡特有の寂しさを帯びている。
琉球地方では城のことを古語でグスクと呼び、現在でもナカグスク、タマグスクといった地名や人物の姓にその痕跡が残っている。
勝連城が最も栄えたのは、阿麻和利(あまわり)という人物が按司であった頃であるらしい。阿麻和利はここ勝連を本拠として海上交易によって富を蓄え、やがて琉球王国の中枢に対して反乱を起こし、遂には滅ぼされた。勝連の側から見れば英雄であり、王府の側から見れば逆臣であったと云うべきであろう。
彼が敗れたのは西暦一四五八年、日本本土ではまだ応仁の乱の前夜に当る。京都では将軍家の権威が次第に衰えつつあり、諸国の武士たちが不穏な空気を孕み始めていた頃であるが、その同じ時代に、この南海の島々でもまた、島と海をめぐる権力争いが行われていたのである。
もっとも、現在の勝連へ来てみると、そのような中世的感慨は、途中から少しずつ現代の風景に侵蝕されて来る。那覇から自動車で一時間ほど走れば着いてしまうし、道中には普天間や嘉手納といった巨大な米軍基地があり、また宮城島の方には広大な石油備蓄施設のタンク群が並んでいる。海を制することが富と軍事力を意味したという点では、六百年前も今も変りはないのであろうが、その規模だけは余りにも違ってしまった。
阿麻和利の頃には、せいぜい小舟やジャンク船が往来していたであろう海の上を、今では巨大な輸送船や軍用機が行き交っている。そういう景色を眺めていると、自分が同じ土地の上に立っているというより、幾つもの時代が薄く重なった場所へ来ているような、妙な気持になる。しかも、当時であれば異邦人であったはずの、本土出身の私のような人間が、今では観光客として何の不思議もなくこの城跡を歩いているのである。琉球が日本の外部であった時代を思うと、そのこともまた不思議な感じがした。
城へ登る坂は思ったより急で、観光客用のカートが麓に待機しているのも無理はない。私は途中までそれに乗せてもらった。湿気を含んだ南国の風が吹き抜け、草木の匂いが時折混じって来る。
途中からは石段を歩くのであるが、登るにつれて海が少しずつ開けて来る。城というものは結局、眺望のために築かれるのであろうと思う。高所から海路を見渡せるというだけで、この場所には既に軍事的価値があったに違いない。
しかし一方で、こういう高台を見ると、私はすぐ別の事を考えてしまう。水の確保はどうしていたのであろうか、食糧を毎日ここまで運び上げるのは大変であったろう、とか、そういう妙に生活臭い事が気になって来るのである。殊に近年、台風の際に断水を経験して以来、城郭や山城を見ると、まず水の事を考えてしまう癖がついてしまった。
勝連城の麓には現在、「あまわりパーク」と呼ばれる施設が整備されつつあり、私が訪れた時にも、まだ工事の続いている区域が見受けられた。ここでは阿麻和利の生涯を題材にした催しが行われていて、地元の中高生の人々が演じるミュージカル風の演劇を鑑賞することができた。
阿麻和利は六百年前、この海辺の城から兵を挙げ、王府と争い、多くの人々を死なせた人物であった筈である。けれども、その同じ人物が、今日では土地の歴史的人物として親しまれ、少年少女たちの演ずる郷土劇の主人公になっているのである。私はそれを見ながら、歴史というものは、永遠に決着のつかぬ怨念の集積であると同時に、一方では、長い歳月のうちに次第に角を失って、土地の物語や祭礼の中へ静かに溶け込んで行くものでもあるのだろうと思った。
石垣の上には相変らず海風が吹いていて、阿麻和利の時代にも恐らく同じように潮の匂いがしていたのであろうが、その風を眺めている現在の人々の心持だけは、もう昔とはすっかり変ってしまったのである。