
沖縄県うるま市にある勝連城(かつれんじょう)を訪れた。
私は以前から名前だけは知っており、琉球王国の世界文化遺産に登録されている数々のグスクを、この勝連城を含めて順番に訪れてみたいと思っていた。

本土の城郭と違って沖縄の城郭はまるで趣を異にしていて、天守閣もなく白壁が残っているわけでもない。積み上げられた石ばかりが積み重なっていて、沖縄の強い日差しと時々訪れる豪雨に晒されているのである。そのようすはいかにも南国的であり、潮風に磨かれた遺跡特有の寂しさを帯びている。

琉球地方では城のことを古語でグスクと呼び、現在でもナカグスク、タマグスクといった地名や人物の姓にその痕跡が残っている。

勝連城が最も栄えたのは、阿麻和利(あまわり)という人物が按司であった頃であるらしい。阿麻和利はここ勝連を本拠として海上交易によって富を蓄え、やがて琉球王国の中枢に対して反乱を起こし、遂には滅ぼされた。勝連の側から見れば英雄であり、王府の側から見れば逆臣であったと云うべきであろう。

彼が敗れたのは西暦一四五八年、日本本土ではまだ応仁の乱の前夜に当る。京都では将軍家の権威が次第に衰えつつあり、諸国の武士たちが不穏な空気を孕み始めていた頃であるが、その同じ時代に、この南海の島々でもまた、島と海をめぐる権力争いが行われていたのである。

もっとも、現在の勝連へ来てみると、そのような中世的感慨は、途中から少しずつ現代の風景に侵蝕されて来る。那覇から自動車で一時間ほど走れば着いてしまうし、道中には普天間や嘉手納といった巨大な米軍基地があり、また宮城島の方には広大な石油備蓄施設のタンク群が並んでいる。海を制することが富と軍事力を意味したという点では、六百年前も今も変りはないのであろうが、その規模だけは余りにも違ってしまった。

阿麻和利の頃には、せいぜい小舟やジャンク船が往来していたであろう海の上を、今では巨大な輸送船や軍用機が行き交っている。そういう景色を眺めていると、自分が同じ土地の上に立っているというより、幾つもの時代が薄く重なった場所へ来ているような、妙な気持になる。しかも、当時であれば異邦人であったはずの、本土出身の私のような人間が、今では観光客として何の不思議もなくこの城跡を歩いているのである。琉球が日本の外部であった時代を思うと、そのこともまた不思議な感じがした。

城へ登る坂は思ったより急で、観光客用のカートが麓に待機しているのも無理はない。私は途中までそれに乗せてもらった。湿気を含んだ南国の風が吹き抜け、草木の匂いが時折混じって来る。

途中からは石段を歩くのであるが、登るにつれて海が少しずつ開けて来る。城というものは結局、眺望のために築かれるのであろうと思う。高所から海路を見渡せるというだけで、この場所には既に軍事的価値があったに違いない。

しかし一方で、こういう高台を見ると、私はすぐ別の事を考えてしまう。水の確保はどうしていたのであろうか、食糧を毎日ここまで運び上げるのは大変であったろう、とか、そういう妙に生活臭い事が気になって来るのである。殊に近年、台風の際に断水を経験して以来、城郭や山城を見ると、まず水の事を考えてしまう癖がついてしまった。

勝連城の麓には現在、「あまわりパーク」と呼ばれる施設が整備されつつあり、私が訪れた時にも、まだ工事の続いている区域が見受けられた。ここでは阿麻和利の生涯を題材にした催しが行われていて、地元の中高生の人々が演じるミュージカル風の演劇を鑑賞することができた。

阿麻和利は六百年前、この海辺の城から兵を挙げ、王府と争い、多くの人々を死なせた人物であった筈である。けれども、その同じ人物が、今日では土地の歴史的人物として親しまれ、少年少女たちの演ずる郷土劇の主人公になっているのである。私はそれを見ながら、歴史というものは、永遠に決着のつかぬ怨念の集積であると同時に、一方では、長い歳月のうちに次第に角を失って、土地の物語や祭礼の中へ静かに溶け込んで行くものでもあるのだろうと思った。

石垣の上には相変らず海風が吹いていて、阿麻和利の時代にも恐らく同じように潮の匂いがしていたのであろうが、その風を眺めている現在の人々の心持だけは、もう昔とはすっかり変ってしまったのである。
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