2023年9月24日日曜日

2023 沖縄 恩納村の周辺の写真

沖縄県の恩納村(おんなそん)は、沖縄本島中部の西海岸に位置し、万座毛をはじめとする景勝地や大型リゾートホテルが集まる土地である。海水浴場も多くて、本土の人間が思い描く「南国の沖縄」に最も近い場所かも知れない。

これはタイガービーチの近くに宿泊したときの写真だ。夜になると海岸の方から花火が上がることがあった。

私の興味は、次第に地形の方へ向かうようになった。そこで、私は石川高原展望台に登ってみた。

石川展望台と呼ばれる場所に来た。ここからは北側に石川岳、恩納村が見える。ここの地点から島の北側は、ほとんど山ばかりだ。

もっとも、沖縄へ行ったことのない人と話していると、「沖縄に山なんてあるのか」と聞かれることがある。確かに本土の人間は、沖縄と云うと海ばかりを想像しがちである。しかし実際には、本島北部はかなり山が多いのである。恩納村の辺りですら坂道が多く、徒歩や自転車で島を東から西へ横断するのは骨が折れると思う。

展望台から見下ろすと、麓には大きなゴルフ場が広がっていた。沖縄の森は濃い緑色をしている。その中に、黄緑色の芝生と白い砂のバンカーが幾何学模様のように配置されている。率直に言って美しいと思った。

私はゴルフをしないが、景観として眺める限り、この風景はなかなか見事だと思う。沖縄の強い日差しの下では、芝生の黄緑色とバンカーの砂色とが鮮やかに浮かび上がっている。 沖縄の夏は相当暑い。ゴルフでは一日中歩き回るのだから、実際にプレーする人々は大したものだと思う。

いずれにしてもゴルフ場は一種の庭園のようだ。沖縄の自然を眺めているつもりでいても、その風景の一部は人間が後から作ったものであった。

展望台の尾根を越えると、西側にはホテル群の並ぶ恩納村があり、東側には石川の市街地が広がっている。同じ沖縄でありながら、僅かな距離で景色の表情が変わるのが面白い。

展望台からは恩納村の海岸線と石川岳の方向が見渡せる。沖縄本島はこの辺りで最も細くなっているので、高い所へ登ると左右に海が見える。片方は東シナ海であり、もう片方は太平洋である。同じ海でも西側の方がどこか色が鮮やかに見える。

この独特の色彩は、さんご礁や石灰岩、遠浅の海岸といった地理的条件によって生じるものらしい。しかし理屈を知ったからといって感動が減る訳ではなく、むしろ何故あれほど美しく見えるのかを人間が説明しようとしているのだな、と思う。

「海」と云えば普通は青い水面を思い浮かべるのだが、沖縄の海にはそれだけでは言い表しがたいものがある。「海」の色というより、一種の「光の現象」を眺めているような気がするのである。

沖縄に住んでいた頃、私は散歩のたびに、お気に入りのポッドキャストを聞きながら海岸沿いを歩いていた。目の前には東シナ海が広がっている。ほんの百数十年前であれば、人や物の往来を妨げる巨大な障壁として存在した海である。その海を眺めながら、私は東京などの遠く離れた本土で配信された音声を聞いていた。

海そのものは昔と変わらずそこにある。船で渡ろうと思えば今でも容易ではない。しかし情報だけは、その広大な海を全く存在しないもののように飛び越えて来る。

海を眺めていると、人間は長い間、島と島、国と国とを隔てる障壁と向き合って来たのだと思う。一方で、耳から流れて来るポッドキャストは、その障壁を殆ど無意味なものにしてしまっている。私は散歩をしながら、変わらない地理と、急速に変化した通信技術との奇妙なせめぎ合いを感じていた。

石川周辺には養豚場が多いらしく、夜になると独特の匂いが漂って来る。肥料のような匂いでもあり、時には血の匂いを連想させることもある。雨上がりには殊に強く感じられる。観光案内には余り書かれない事であるが、実際に暮らしてみると、こういう匂いの方が却って土地の記憶として残るのかも知れない。

もっとも私は田舎の出身で、肥料の匂いには比較的慣れている。そのため余り気にならなかったが、住居を探す人の中には敬遠する者もいるであろう。考えてみれば、沖縄料理は豚肉を多く用いる。そういう食文化を支える現場が何処かに存在するのは当然なのであるが、我々は食卓の上の肉しか見ない。

展望台から青い海を眺めた後で養豚場の匂いを嗅ぐと、観光地としての沖縄と、生活の場としての沖縄とが、同じ場所に重なっていることを改めて感じた。

展望台にはハートマークや相合い傘の落書きが沢山残されていた。展望台という場所は不思議なもので、何処へ行っても似たような落書きがある。

人間は高い所へ登って遠くを眺めると、景色よりも隣にいる相手の方が気になって来るのかも知れない。そして、そうして名前を書き残した二人が、その後どうなったのかは誰にも分からない。

これは、展望台に登る階段の写真である。何百段かあって、登るだけで結構良い運動になると思った。

自分が登ったときは、地元の方が運動がてら登ってきていて少し話ができた。彼は地元の出身でガイドの仕事もしているらしく、観光地の青の洞窟の場所などを指で指し示して教えてくれた。その他、本土から移住してきたひとがあの辺りに多く住んでいて、等の話をしてくれた。

そのうち、奄美大島の話になった。私は近いのだから当然行ったことがあるものと思っていたが、その人は「有名なのは知っているが、自分は行ったことがない」と云う。

最初は少し意外な気がした。しかし考えてみれば、奄美へ行くには飛行機や船を利用しなければならない。地図の上では近く見えても、日常生活の中では案外遠いのである。

そういう事は本土にもある。東京の人間が意外に東京タワーへ登ったことがなかったり、大阪の人間が通天閣へ行ったことがなかったりするのと似ているのかも知れない。海によって隔てられた島々を眺めていると、近いとか遠いとかいう感覚も、結局は交通手段によって決まる相対的なものに過ぎないのだなと思った。

2023年9月23日土曜日

2023 夏 勝連城 

沖縄県うるま市にある勝連城(かつれんじょう)を訪れた。 私は以前から名前だけは知っており、琉球王国の世界文化遺産に登録されている数々のグスクを、この勝連城を含めて順番に訪れてみたいと思っていた。
本土の城郭と違って沖縄の城郭はまるで趣を異にしていて、天守閣もなく白壁が残っているわけでもない。積み上げられた石ばかりが積み重なっていて、沖縄の強い日差しと時々訪れる豪雨に晒されているのである。そのようすはいかにも南国的であり、潮風に磨かれた遺跡特有の寂しさを帯びている。
琉球地方では城のことを古語でグスクと呼び、現在でもナカグスク、タマグスクといった地名や人物の姓にその痕跡が残っている。
勝連城が最も栄えたのは、阿麻和利(あまわり)という人物が按司であった頃であるらしい。阿麻和利はここ勝連を本拠として海上交易によって富を蓄え、やがて琉球王国の中枢に対して反乱を起こし、遂には滅ぼされた。勝連の側から見れば英雄であり、王府の側から見れば逆臣であったと云うべきであろう。
彼が敗れたのは西暦一四五八年、日本本土ではまだ応仁の乱の前夜に当る。京都では将軍家の権威が次第に衰えつつあり、諸国の武士たちが不穏な空気を孕み始めていた頃であるが、その同じ時代に、この南海の島々でもまた、島と海をめぐる権力争いが行われていたのである。
もっとも、現在の勝連へ来てみると、そのような中世的感慨は、途中から少しずつ現代の風景に侵蝕されて来る。那覇から自動車で一時間ほど走れば着いてしまうし、道中には普天間や嘉手納といった巨大な米軍基地があり、また宮城島の方には広大な石油備蓄施設のタンク群が並んでいる。海を制することが富と軍事力を意味したという点では、六百年前も今も変りはないのであろうが、その規模だけは余りにも違ってしまった。
阿麻和利の頃には、せいぜい小舟やジャンク船が往来していたであろう海の上を、今では巨大な輸送船や軍用機が行き交っている。そういう景色を眺めていると、自分が同じ土地の上に立っているというより、幾つもの時代が薄く重なった場所へ来ているような、妙な気持になる。しかも、当時であれば異邦人であったはずの、本土出身の私のような人間が、今では観光客として何の不思議もなくこの城跡を歩いているのである。琉球が日本の外部であった時代を思うと、そのこともまた不思議な感じがした。
城へ登る坂は思ったより急で、観光客用のカートが麓に待機しているのも無理はない。私は途中までそれに乗せてもらった。湿気を含んだ南国の風が吹き抜け、草木の匂いが時折混じって来る。
途中からは石段を歩くのであるが、登るにつれて海が少しずつ開けて来る。城というものは結局、眺望のために築かれるのであろうと思う。高所から海路を見渡せるというだけで、この場所には既に軍事的価値があったに違いない。
しかし一方で、こういう高台を見ると、私はすぐ別の事を考えてしまう。水の確保はどうしていたのであろうか、食糧を毎日ここまで運び上げるのは大変であったろう、とか、そういう妙に生活臭い事が気になって来るのである。殊に近年、台風の際に断水を経験して以来、城郭や山城を見ると、まず水の事を考えてしまう癖がついてしまった。
勝連城の麓には現在、「あまわりパーク」と呼ばれる施設が整備されつつあり、私が訪れた時にも、まだ工事の続いている区域が見受けられた。ここでは阿麻和利の生涯を題材にした催しが行われていて、地元の中高生の人々が演じるミュージカル風の演劇を鑑賞することができた。
阿麻和利は六百年前、この海辺の城から兵を挙げ、王府と争い、多くの人々を死なせた人物であった筈である。けれども、その同じ人物が、今日では土地の歴史的人物として親しまれ、少年少女たちの演ずる郷土劇の主人公になっているのである。私はそれを見ながら、歴史というものは、永遠に決着のつかぬ怨念の集積であると同時に、一方では、長い歳月のうちに次第に角を失って、土地の物語や祭礼の中へ静かに溶け込んで行くものでもあるのだろうと思った。
石垣の上には相変らず海風が吹いていて、阿麻和利の時代にも恐らく同じように潮の匂いがしていたのであろうが、その風を眺めている現在の人々の心持だけは、もう昔とはすっかり変ってしまったのである。

2023年9月9日土曜日

2023 沖縄 今帰仁城

沖縄県の北部、国頭郡にある今帰仁(なきじん)城という遺跡に行ってきました。
北部の本部(もとぶ)半島にある。
昔、日本では室町時代であった時代に沖縄本島は3つの勢力に分かれて勢力争いを繰り広げていた。
それらは北を治める北山、那覇地域を含んだ地域を治める中山、沖縄本島の南部を治める南山といわれる勢力で、最終的に中山の勢力が勝利して琉球王国となった。
沖縄本島を、現代の自動車で走れば片道 3 時間。けれど当時の人々にとって山ひとつ、川一本は越えがたい“国境”だった。
今帰仁(なきじん)城は北山の勢力が拠点とした城で、中山に滅ぼされたあとは琉球王国の王族が城の主を務めた。
観光客は多かったが、ちょうど人が途絶えた所を撮影しています。
今も残るのは重厚な石垣だけである。想像力を働かせ、昔に建っていた建物を思い浮かべる。建物が失われたあとも、この場所は聖域として大切に守られてきたらしい。
沖縄の青い海の向こうに、かつて三つの“王国”がせめぎ合った物語を思い浮かべる──それだけで島旅はぐっと深みを増す。
ここは火の神を祀る聖域であるらしい。
当日、近くのビジターセンターに立ち寄ると、地元ガイドさんが同行して案内してくれた。歌も歌っていた。
沖縄の中世遺構を巡ると、日本本土の寺社や城郭とは意匠も信仰も異なる点によく出会う。
薩摩軍が琉球王国に攻め入ったときに、今帰仁城も焼き討ちされたそうだ。 そのように、歴史の節々で、本土勢力との緊張や対立が繰り返されてきた事実が浮かび上がる。
ちなみに「今帰仁」と書いて「なきじん」と読む理由については、確定的な説は存在しないようだ。
今帰仁城の石垣に使われている岩には、数百万年前の貝類などの化石がしばしば混じっている。太古の海へ思いを馳せることができる。
今帰仁 文化センターを訪れた。
地元、今帰仁村の暮らしに関する資料が展示されている。
日本本土でも有名な、米国人ペリー提督は沖縄(琉球王国)を訪れ、調査を行った。LEW CHEW はリュウキュウ(琉球)のことらしい。
「アカン墓」という名前は興味深かった。沖縄の墓は本土のものと大きく趣が異なる。屋根付きで、大きく、まるで小さな家のような形をしている。
「当時、西洋人のことを「オランダー」と呼び、フランス人を葬った墓であるがオランダ墓と呼ばれている。」真面目な文体で書いてあるのが逆に面白かったりする。
ブランコ。
プロジェクト・マネジメントの世界で定番の風刺画、コマが進むごとに形を歪めながら“最終的に誰も望まない代物”へ変貌していく漫画がある。この漫画は要件定義や認識合わせの難しさを表している。
今回訪問した 今帰仁では、「要件が正しく伝わり、正しく実装された成功例」が静かに佇んでいた。