2024年3月1日金曜日

2023年 沖縄県うるま市の生活

沖縄県うるま市に住んでいたときの雑多な写真を貼っていきます。本稿では、写真と説明文には特に関係はないこともあります。
上の写真は沖縄本島の中部、島のいちばん細い部分を飛行機から見たところです。下部には石油タンクと「海中道路」、上部には金武町や宜野座が見える。左側がうるま・読谷となっています。
散歩中の何気ない写真。
石川一帯には養豚場が点在しているため、特有のにおいが漂うことがある。雨上がりや風下になる日は特に強く感じられるが、「慣れてしまえば気にならない」という意見もある。
石川地区には繁華街や飲み屋が密集している。西海岸で日中にマリンアクティビティを楽しんだ後、夜は東側に移動して食事や酒場めぐりを満喫する――これが典型的なリゾートの過ごし方である。沖縄は全体的に、西側のほうが東側よりも海がきれいであるという評判がある。なので有名リゾートは西側が多い。
散歩していたら、マンションから水があふれているところに遭遇。原因はよくわからなかった。
夜は街灯が少なく暗い。犬の落とし物が点在していることもあり、散歩は控えがちになる。海岸沿いの地域を除けば坂道が多く、足元には十分注意が必要だ。
沖縄では津波警報が発令されたこともあれば、台風の襲来で断水を経験したこともある。こうした自然災害に備え、島の多くの家屋は屋上に大型の貯水タンクを備え付けている。沖縄の住宅に見られる特徴の一つとなっている。
近隣の大型スーパーとしてはサンエーとマックスバリュの二択が主流だ。なかでもサンエーは食品売場に加えて家電量販店のエディオンを併設しており、食材から最新家電までワンストップでそろう総合ショッピングスポットになっている。また、レジでは電子マネーの楽天Edyが広く使われている。
サンエーにはミスタードーナツや餃子の王将といった全国チェーンの飲食店もテナントとして入っていた。ミスタードーナツはコーヒーおかわり可能だったのでお得感があった。
那覇空港から北部へ向かうなら、高速道路を走る名護行きバスがいちばん手軽だ。空港のバス乗り場で乗車し、沖縄自動車道を北上して約50分――「石川インターチェンジ」で下車すれば、石川エリアへのアクセスはスムーズだ。
沖縄には高速道路が整備されている一方で、鉄道網は未発達である。多くの人は、移動手段は主に自家用車に頼っているようだ。しかし、料金所ではETCレーンを利用する車が少なく、休日になると現金専用レーンに長い列ができる。
マングローブ林。
ここにマンションが建つらしい。向こうの方に、うるま市石川の東海岸と、発電所が見える。その先は、金武(きん)町と呼ばれる。
1月14日に撮影した一枚だが、画面にはひまわりやコスモスが色鮮やかに咲き誇っている。冬は一瞬で通り過ぎてしまったかのような光景だった。
近くに石川図書館(うるま市の図書館の石川分館)があり、館内には規模の大きな沖縄コーナーが設けられていた。使い勝手は本土の図書館システムと同じだった。
海沿いの市役所(うるま市石川出張所)は、大きく、石造りの建物で、スケール感があった。台風に強そうだと思った。
市役所の駐車場。
有名スーパーのサンエー館内にはミスタードーナツや餃子の王将など全国区の飲食チェーンも入居していた。
2月4日に桜まつりに行ったときの写真。沖縄の桜は、本土の桜とは違った種類だった。
桜まつりで有名な場所へ向かう。
突然だが沖縄土産のおすすめを述べると、オリオンビールの「ビアナッツ」 だ。サクッと揚がったピーナッツにビール酵母をまぶしたスナックで、軽い塩気と後を引く旨味があり、ビール好きには間違いなく喜ばれる。
けっこう混んでいた。
伊江島(いえじま)が遥か彼方に見える。
2月11日、野球の阪神タイガースが宜野座という場所でキャンプをやったときに見に行ったときの写真。駐車場がいっぱいで、けっきょく脇を通り過ぎただけで帰ってきた。
知人に合うために、ムーンビーチというホテルに行ったときに撮影した写真。けっこういいホテルとして知られている。

2023年11月30日木曜日

2022年,2023年 兵庫県 柏原八幡宮の紅葉

柏原という場所は兵庫県中央部にある。この町を歩いていると、あちこちで織田家の木瓜紋を見る。ここは織田信長の系譜を引く織田家が治めた城下町なのである。信長と云えば安土城や天下統一を思い浮かべるが、柏原の織田家はそういう華々しい歴史とは少し違う。

信長の時代には天下人に最も近かった一族であるが、江戸時代には二万石の小藩として存続した。歴史というものは不思議なもので、滅んだと思われる家ほど意外な形で生き残っていたりする。足利家や今川家も同様で、かつて天下に号令した家々が、江戸時代には小藩主や高家として生き残った。

江戸幕府の将軍であった徳川家から見て、かつて同盟を組んで天下人の先駆けとなったのが織田家であったが、幕府は織田家を滅ぼさず、そのかわりに有力大名としても残さず小規模であるが、名誉は与えるという扱いをした。

現在の柏原は静かな地方都市であり、城下町というよりも住宅地と学校と役所がゆるやかに共存しているような場所である。しかし町を歩いていると所々で見る木瓜紋が、この土地が確かに織田家の町だった事を思い出させる。

柏原は現在は丹波市という行政区画だ。もともと丹波の国の一部だったからだ。この辺りでは「丹波」という言葉そのものに一種の価値がある。丹波黒豆、丹波茶、丹波焼といった具合に、土地の名前そのものが商品になっているのである。

さて柏原八幡宮は、建物の前身は南北朝時代の戦乱で焼け、その後戦国時代に明智光秀が丹波攻めをしたときに再び焼失し、その後豊臣秀吉によって再建されたという。神社なのに仏教建築という三重塔、鐘楼が立つという神仏習合の特徴がある。現在は冬に厄除けの祭りが開かれることで地元民に愛されている。

紅葉そのものも美しいのであるが、私にはむしろ空気の冷たさの方が印象に残った。この時期は夏の暑さが去り、冬の寒さが来る前の、僅かな季節である。その空気に触れた時に秋が来たのだと感じるのである。

とくに寒暖差が激しい地域では紅葉が美しくなるとされるから、丹波市は紅葉を見るには良い条件なのであろう。

神社の境内に三重塔が見える。神社と寺院が現在ほど明確に区別されていなかった時代の名残であり、柏原八幡宮の特徴的な景色になっている。

これは三重の塔の説明書きだ。神社に塔があるというのは少し不思議な気がするが、昔は神社と寺院が現在ほど明確に区別されていなかったらしい。神仏習合と呼ばれる時代には、神社の境内に塔や鐘楼が建ち並ぶことも珍しくなかったのである。

八幡宮はちょっとした丘の上にあるので、階段や坂道を登っていく。頂上の八幡宮まで十分ばかり歩いたのかと思う。途中でカメラを持った旅行者らしい人と一緒になった。その人も、「思ったより距離がありますね」と言っていた。確かに、なかなか良い運動になる。地元では学校の運動部がこの石段を使って練習することもあるらしい。上まで駆け上がり、また駆け下りれば相当な鍛錬になるであろう。

境内には鐘楼も残されている。明治の神仏分離によって多くの寺院建築が失われた中で、こうした建物が残されたのは幸運なことであったのだろう。

その次に時間があったので、陣屋の跡を歩いて回った。柏原藩織田家の本拠地は、城ではなく陣屋と呼ばれる屋敷であり、八幡宮から数分ほど歩いた場所にあった。現在は建物の一部だけが残っている。

陣屋の跡に立っていると、つい「殿様の暮らし」を想像してしまう。もっとも、殿様といっても何でも自由に出来た訳ではない。江戸には将軍がおり、家臣団がおり、藩財政があり、参勤交代もある。現代の会社組織と同じように、上と下の板挟みになる事も少なくなかったであろう。

近所には、柏原藩の資料館があり、田ステ女(たすてめ)と呼ばれる江戸時代の女性俳人の資料館もある。

知り合いが以前、「城下町というのは何処か落ち着いた雰囲気がある」と言っていた。柏原を歩いていると、なるほどそうかもしれないと思う。近くの小野市にも小野藩の陣屋町が残っており、あちらにも似たような静けさがある。

陣屋の周囲には学校や役所が集まり、道幅にはどこか余裕があり、大きな家がゆったりと建っている。そのためかとも思う。城下町では、殿様がいて、家臣がいて、寺があり、市が立ち、人が住む。

そうして長い年月を経るうちに、町にも人間と同じような気質が生まれるのかも知れない。柏原を歩いていると、その形だけが現在まで残り、そこへ現代人が住んでいるような不思議な感じがするのであった。