
島根県の石見銀山に行った。

石見銀山には、自動車などで行ける。この図でいうと、左下から石見銀山を訪れることになる。右上方向に石見銀山の坑道があって、見学ができる。

龍源寺間歩(まぶ)という場所が、見学可能な有名な坑道なので、ここを目指していくことになる。石見銀山エリアの大きさは、武家屋敷から銀山のトンネル入り口までは3キロぐらいであるようだ。入口には代官所があり、そこからカート(ぎんざんカート)が出ていて、500円払うと乗ることができる。カートでは説明を聞きながら移動できる。カートは30分に1度ぐらいの割合で出ている。カートを使わずに歩いて移動する場合は、夏や冬であればちょっと遠いと感じるのかもしれない。

銀山で取れた銀は専用の道を通って、山を超えて港まで運んでいたらしい。重労働だったと思う。

銀山カートの時刻表。

銀山カートは5人乗りで、グループを考慮して乗せてくれる。感染症対策のため、ビニールが貼ってあったりした。
座席は両脇が空いていて、手すりにつかまっていないと振り落とされる可能性もあるので、カメラで沿道の写真を取るのはちょっと苦労する。

龍源寺間歩(坑道)についた。

間歩の入口。中に入ると、夏であってもひんやりとする。天然のクーラーのようだ。

温度計が置いてあって、16度ぐらいだ。

昔使われていた坑道も、現在では立入禁止になっているものもある。とても狭く、いつ崩れてきてもおかしくなさそうな危険なものだ。労働者の皆さんはよくやったものだと思う。

戦国時代・江戸時代に開発され利用された鉱床と、その後に新たに開発された鉱床。今はどちらも使われていない。

現在の島根県は、かつて石見国と出雲国の二つに分かれていた。
石見国は、名前の通り「岩海(いわうみ)」とも呼ばれるほど岩が多く、平地が少ない地形であった。
石見銀山では銀だけでなく、金や銅も採掘されていたという。

銀の採掘が始まったのは1520年代頃とされており、その当時、日本に来ていたポルトガル商人たちが石見銀山で手に入れた銀を、中国産の生糸や南アジアの香辛料と交換して利益を得ていた。当時ヨーロッパで描かれた地図には石見銀山が記載されており、世界的にもその名が知られていた。

日本が戦国時代だったころ、石見銀山は多くの大名たちの争奪の的となった。大内氏、尼子氏、毛利氏といった有力な武将たちが戦いを繰り広げた。
江戸時代に入ると石見銀山は幕府の直轄地となり、代官が派遣されるようになった。
飢饉対策としてさつまいもの栽培を奨励した代官は、「いも代官」として親しまれた。

興味深いのは、15世紀の日本が金属資源の供給国として世界に知られていた点だ。現在の日本から考えると、少し異様にも思えるが、当時の日本は銀や金といった資源の輸出で国際的な存在感を示していた。

鉱山労働者にも役割分担があって、鉱石を掘り出す堀子(ほりこ)、鉱石を運ぶ者、留山師(とめやまし)といって落盤防止の工事を行う者、地下水を排水する者、などの職種があった。
自分だったらどの労働ができただろうか?と考えた。

森の中にドーンと現れる寺院。

寺院への階段。

銀山カートの停車場にいた猫たち。やせてたり、あまり栄養や健康状態がよくなさそうであった。

銀がたくさん生産されていた遺跡だったが、正直ここで労働するのはつらそうだと思った。危険も多かったことだろうと思った。銀山資料館は当日は閉館日だったので訪ねることができなかったが、また機会があれば訪れたい。
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