2024年9月20日金曜日

2024 山口県 秋吉台洞窟

山口県、秋吉台に行ってきた。秋吉台はMine秋吉台ジオパーク(Mine は秋吉台がある美祢(みね)市のことらしい。)の一部になっている。
この地域は石灰岩で構成されており、長い年月をかけて雨による侵食が進み、穴や洞窟が形成された。 このような地形は「カルスト地形」と呼ばれるそうだ。
秋吉台周辺は、有名な洞窟が3つある。 大正洞は、秋吉台にある3つの洞窟のうちの1つである。
今回は、その3つの洞窟の中で最初に訪れた。
秋芳洞の他には、景清洞(かげきよどう)と大正洞(たいしょうどう)も近隣に位置している。
秋芳洞に入るには入口で約1,300円の入洞料を支払う必要があるが、これら3つの洞窟を巡ることができる「三洞物語周遊チケット」が約2,500円で販売されており、まとめて見学することも可能である。
説明文を配信するマグシーバーを配信している。洞窟の中では確か携帯電話はつながらなかったと思う。
他の見学者はおらず、静かで落ち着いた雰囲気だった。
洞窟内は丁寧に舗装されており、見学コースを案内する看板も設置されていた。
整備はしっかり行き届いていた。ただし階段が多く、バリアフリーには対応していないようである。
洞窟の中の地形にたくさんの地名がついている。極楽というのもある。
行き止まり。
洞窟内で特に印象的だったのは、湧き出る泉だった。 地面は硬い石で覆われており、壁も岩石でできていて、水が多い環境である。そのため、滑って転倒したり、電子機器を落としたりすると怪我や故障の原因になりやすい。安全のため、注意深くゆっくりと進む必要がある。
景清洞(かげきよどう)の名前は、平安時代末期の武将、大庭景清が戦いに敗れた後、この洞窟に隠れ住んでいたという伝承に由来しているそうである。洞窟内は温度が一定のため、暑さや寒さをある程度しのぐことができたのかもしれない。
景清洞には、入口付近だけを見て帰る「観光コース」と、さらに奥まで進む「探検コース」の2つのコースがあり、それぞれ料金が異なる。
観光コースは、非常に歩きやすいコンクリートで舗装された道が整備されており、片道約40分程度で見学できる。車椅子でも見学が可能だという話を聞いたことがある。
洞窟内にはコウモリが多数生息しており、頭上を飛び回る様子を見ることができる。
自然の息吹を感じながら、歴史と生態系が織りなす特別な空間を体験することができる場所である。
秋吉台の3つの洞窟の中で最も有名なのは秋芳洞(あきよしどう、しゅうほうどう)である。
この洞窟は石灰岩で形成されており、観光コースが整備された約1キロメートルを見学しながら歩くことができる。
洞窟内では、垂れ下がりながら成長した鍾乳石など、洞窟ならではの特徴的な構造を見ることができる。
秋芳洞の中は非常に涼しく、多くの観光客が訪れていた。 エレベーターで入口に降り立つと、2つの方向へ分かれる通路がある。まず1つの方向を探索してから入口に戻り、もう一方の通路を進むことになった。歩く距離が長く、途中で疲れを感じた。
洞窟内は入口から約100メートルほど地下に位置しており、自然が作り出した特有の空間である。
足元は濡れており、薄暗い環境のため、普段の歩道とは大きく異なる雰囲気であった。
洞窟内には川が流れており、ものを落としてしまわないよう注意しながら進んだ。川には観光客が落とした物がたくさん沈んでいるのではないか、と想像しながら歩いた。
出口で川の景色に出たときは、ほっと一息ついた。
自然が長い時間をかけて刻んだ模様の美しさを目の当たりにし、その壮大さに感動した。
今回は真夏に来て涼しかったが、晩秋の紅葉の季節に来たら、また別の美しさがあるのかなと思った。

2024年9月14日土曜日

2024夏 石見銀山

島根県の石見銀山に行った。
石見銀山には、自動車などで行ける。この図でいうと、左下から石見銀山を訪れることになる。右上方向に石見銀山の坑道があって、見学ができる。
龍源寺間歩(まぶ)という場所が、見学可能な有名な坑道なので、ここを目指していくことになる。石見銀山エリアの大きさは、武家屋敷から銀山のトンネル入り口までは3キロぐらいであるようだ。入口には代官所があり、そこからカート(ぎんざんカート)が出ていて、500円払うと乗ることができる。カートでは説明を聞きながら移動できる。カートは30分に1度ぐらいの割合で出ている。カートを使わずに歩いて移動する場合は、夏や冬であればちょっと遠いと感じるのかもしれない。
銀山で取れた銀は専用の道を通って、山を超えて港まで運んでいたらしい。重労働だったと思う。
銀山カートの時刻表。
銀山カートは5人乗りで、グループを考慮して乗せてくれる。感染症対策のため、ビニールが貼ってあったりした。 座席は両脇が空いていて、手すりにつかまっていないと振り落とされる可能性もあるので、カメラで沿道の写真を取るのはちょっと苦労する。
龍源寺間歩(坑道)についた。
間歩の入口。中に入ると、夏であってもひんやりとする。天然のクーラーのようだ。
温度計が置いてあって、16度ぐらいだ。
昔使われていた坑道も、現在では立入禁止になっているものもある。とても狭く、いつ崩れてきてもおかしくなさそうな危険なものだ。労働者の皆さんはよくやったものだと思う。
戦国時代・江戸時代に開発され利用された鉱床と、その後に新たに開発された鉱床。今はどちらも使われていない。
現在の島根県は、かつて石見国と出雲国の二つに分かれていた。 石見国は、名前の通り「岩海(いわうみ)」とも呼ばれるほど岩が多く、平地が少ない地形であった。 石見銀山では銀だけでなく、金や銅も採掘されていたという。
銀の採掘が始まったのは1520年代頃とされており、その当時、日本に来ていたポルトガル商人たちが石見銀山で手に入れた銀を、中国産の生糸や南アジアの香辛料と交換して利益を得ていた。当時ヨーロッパで描かれた地図には石見銀山が記載されており、世界的にもその名が知られていた。
日本が戦国時代だったころ、石見銀山は多くの大名たちの争奪の的となった。大内氏、尼子氏、毛利氏といった有力な武将たちが戦いを繰り広げた。 江戸時代に入ると石見銀山は幕府の直轄地となり、代官が派遣されるようになった。 飢饉対策としてさつまいもの栽培を奨励した代官は、「いも代官」として親しまれた。
埋蔵されている銀を掘り進めるほど減っていくため、石見銀山の採掘量は時代によって変動した。最盛期には年間38トンもの銀を産出していたが、幕末にはその量がわずか375キログラム以下にまで落ち込んでしまったという。
しまね観光ナビ
しまねの美術館・博物館デジタルアーカイブ
興味深いのは、15世紀の日本が金属資源の供給国として世界に知られていた点だ。現在の日本から考えると、少し異様にも思えるが、当時の日本は銀や金といった資源の輸出で国際的な存在感を示していた。
鉱山労働者にも役割分担があって、鉱石を掘り出す堀子(ほりこ)、鉱石を運ぶ者、留山師(とめやまし)といって落盤防止の工事を行う者、地下水を排水する者、などの職種があった。 自分だったらどの労働ができただろうか?と考えた。
森の中にドーンと現れる寺院。
寺院への階段。
銀山カートの停車場にいた猫たち。やせてたり、あまり栄養や健康状態がよくなさそうであった。
銀がたくさん生産されていた遺跡だったが、正直ここで労働するのはつらそうだと思った。危険も多かったことだろうと思った。銀山資料館は当日は閉館日だったので訪ねることができなかったが、また機会があれば訪れたい。